地縁団体 野沢組

一般財団法人 野沢会

               

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  下高井郡野沢温泉村豊郷9622-2

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野沢温泉の温泉に関する歴史 

時 代 元 号 西 暦 事    柄
奈良時代 神亀2年 724年 ・聖武天皇の頃  温泉発見。
鎌倉時代 文永3年 1272年 ・湯山村としての記録あり。
室町時代 応永2年 1393年

・この頃、湯山村から野沢村に変わったと思われる。また、集落は現在の位置より西に下がった古屋敷にあり、代官所に25軒の人達が村を開いたとの記録がある。最初に湯小屋(今の寺湯付近)を造ったのが河野姓の祖先であり、また惣湯(大湯)の所には富井姓の祖先が住み着いて次々に温泉を開発した。

戦国時代 弘治3年 1557年 ・上杉景虎(謙信)の5月の願文(小菅神社蔵)及び武田晴信(信玄)6月の書状(市河文書:山形県酒田市本間美術館蔵)に野沢の湯との記録あり。
江戸時代 元和2年 1616年 ・飯山藩に佐久間安政入封、温泉を利用する。
寛永9年 1632年

・天正期(1573年~1591年、安土桃山時代)に上杉謙信が軍略上開いた関田峠が頚城方面からの重要なルートとなり、ここの番所を越えての頚城方面からの入湯客が多かった。

寛永16年 1639年 ・松平忠倶が遠州掛川より飯山城に入封となり、以後三代にわたって(67年間)野沢温泉に別荘をかまえ、惣湯の滝を御用湯とした。この場所を今でも御殿としている。その時温泉噴出口近くにあった薬師如来を、現在の健命寺横に移動した。
寛文3年 1663年 ・野沢に未曽有の大火。
享保2年 1717年 ・飯山藩青山幸秀、宮津に転封のため、現在の旅館さかや内にあった御用殿が不用となり払い下げられ、以後は高二斗四升の年貢納入。新藩主は糸魚川より本田利久が着任。
明和8年 1771年 ・6月に代官所より通達。温泉の運上金 永 100文納入せよとの申しつけあり。当時の湯坪は大湯・河原湯・寺湯の3ヶ所だった。その後8月には 150文となり、安永5年(1776年)には 675文に値上げされる。
安永3年 1774年 ・この頃の魚沼方面の湯治客は津南から森宮を通り山に分け入り野沢峠(灯篭木峠)を越えてきた。この年この道筋で「おびん、おきち事件(※1)」が発生した。
天明6年 1786年 ・上照湯開場(現在の真湯)。
天保8年 1837年

・この年の調査では宿屋24軒で、半農半宿の営業で一般の百姓では許されない2階屋だった。村内には村営の村見世(日用品の商い)が3軒あった。当時、百姓が商いをする事を禁じられていたが、温泉場ということで村営の店が許可されたのだろう。

天保9年 1838年 ・滝の湯を中心に湯街共同開発計画議定書。
天保10年 1839年 ・新田の湯(現在の十王堂の湯)開場。滝の湯開場。
弘化4年 1847年 ・善光寺地震マグニチュード 7.4、死者 12,000人。寺湯の温度が下がり、冬場の入浴ができなくなる。
嘉永2年 1849年 ・温泉案内絵図「信州高井郡野沢村温泉絵図」(現存最古)製版、入湯土産にしたものか、かめや旅館に版木現存。
明治時代 明治2年 1869年 ・河野安信氏により麻釜の湯開場。
明治4年 1871年 ・横落の湯開場、この頃の入湯客数約 7,700人。
明治6年 1873年 ・寺湯湯小屋敷取極書、弘化4年の地震のため普請の計画。
明治19年 1886年 ・全国の温泉を網羅した「日本鉱泉誌」(全 3巻、内務省衛生局編纂)発刊、野沢温泉も 6ページの記載あり。
明治20年 1887年 ・「野沢温泉性質効能略記」発刊。
明治21年 1888年 ・2月、長野県鉱泉営業取締規則施行、この規則に基づき夫々の旅舎、共同浴場は施設・成分・効能などの届け出を県に提出、許可を得る。また夫々の浴室に成分分析(鉱泉成績)を表示する。大湯(惣湯)浴舎大改築。
明治31年 1898年 ・佐山角治、野沢温泉に芸妓屋開業。
明治35年 1902年 ・野沢温泉旅舎組合結成。
明治36年 1903年 ・池田良治著「野沢温泉誌」発刊。
明治37年 1904年 ・真湯旅舎組合で真湯新道開設。工費は600円、敷地は湯仲間 6人で所有。
明治43年 1910年 ・真湯新道入口に洗濯湯開設。
大正時代 大正元年 1912年 ・野沢温泉水力電気株式会社設立し全浴場に電灯設置。伊勢宮の湯開場。
大正5年 1916年 ・野沢温泉旅館数 28軒、畳数 2,600枚、料理店 7,商店 32、共同浴場 9ヶ所、洗濯湯 5ヶ所、豊郷村戸数 347、入湯客数 12,000人。官有地財産払い下げが行われ麻釜は豊郷村に払い下げとなったが、古来より惣代が運上金(税金)を納入していたので、惣代に1,500円で払い下げとなった。
大正12年 1923年 ・寺湯分湯(現在の上寺湯)、関東大震災 9月1日発生。
昭和時代
 
昭和3年 1928年 ・12月16日伍長総集会にて麻釜温泉利用調査会を組織、麻釜の温泉を一般に利用する計画を決定し、昭和 6年に 18口開放する。また、この頃小学校新築計画が進み、その総工事費  5万円の半額の 2万5千円は豊郷村で負担し、不足分は野沢組が温泉開放にて得たお金で負担する計画となるが、当面は村長がこれを負担し、旧校舎は村長個人の担保とし、後日野沢組で買い取る方向で約束する。
昭和5年 1930年 ・中山晋平作曲「野沢温泉小唄」発刊。

 昭和7年     ~8年

 1932年          ~1933年 ・麻釜競売事件、小学校建設資金 5万円の内 1万2千円が長野市の宮本氏と信濃銀行に二重債務となっており、競売にまで発展したが、裁判により村長個人の財産を以て返済し解決となる。野沢組惣代でも協議会にて金策に走った。
昭和9年 1934年 ・河原湯改築。
昭和16年 1941年 ・惣代中心の温泉利用調査会にて、新たな分湯計画により噴出量を調査し、昭和17年12月配湯槽が完成する。
昭和17年 1942年 ・富井真著「野沢温泉案内」発刊。
昭和21年 1946年 ・小学校に引湯する。
昭和22年 1947年 ・大湯(惣湯、犬養の御湯)59年ぶりの改修工事。 温泉供給規定定める。
昭和24年 1949年 ・従来の温泉調査会のほか、野沢温泉開発期成同盟会を結成。 長野電鉄の温泉プールへ麻釜より引湯を決める。 8月、第2回日本温泉学会にて、岡山医科大学大岡政治郎博士が真湯を「天下の名湯」と発表。
昭和25年 1950年 ・長野県林知事に温泉ボーリングの地質調査について依頼申し込む。
 昭和27年     ~昭和28年 1952年     ~1953年

・①伊勢宮地区ボーリング 160m常盤屋旅館土地使用、毎分 13リットル、温度 70℃。 ②日影地区ボーリング 150m 上野重治郎氏土地使用、自噴せず、ボーリングホールに水を注入すると滝の湯の湯量が増加したが、自噴せず中止する。 ③御嶽神社前ボーリング  149m、サイフォンにて 8m引き出し毎分 135リットル、47℃。その後サイフォンではなく、横よりトンネルにて自噴の方法とした。   

昭和28年  1953年 ・長野電鉄の温泉プール完成。
昭和35年 1960年 ・松葉共同浴場開場。
昭和36年 1961年 ・財団法人野沢会設立。
昭和40年 1965年 ・温泉噴出量調査、共同浴場 4、個人貸し出し 7。
昭和41年 1966年 ・民宿のが 150~160軒となる。
 昭和49年  ~昭和50年  1974年           ~1975年 ・長坂地区にて温泉ボーリングしたが見込みなく 150mで中止。
昭和53年 1978年 ・温泉ボーリング調査実施。
昭和54年 1979年 ・十王堂の湯改築工事。
昭和55年 1980年 ・秋葉の湯開場。新田の湯、中尾の湯改築。
昭和57年 1982年 ・松葉の湯改築。
 昭和57年 ~昭和58年  1982年          ~1983年 ・新田の森泰夫氏自宅下ボーリング 1,000mで中止。
昭和58年 1983年 ・11月17日温泉新ボーリング工事着手、横落の湯改築。
昭和59年 1984年 ・クアハウスオープン。野沢温泉地下資源保全条例制定。
昭和60年 1985年 ・村道滝の湯線に温泉廃湯による無散水融雪道路完成。 向林地区ボーリング 703m、自噴毎秒 10リットル。
昭和61年 1986年 ・向林、温泉ボーリング中止。 野沢温泉農協会館にて第 21回長野県温泉協会の総会が開催される。
昭和62年 1987年 ・向林、温泉揚湯影響調査試験。
昭和63年 1988年 ・温泉高度利用研究会発足。 金桝物産井戸停止。
平成時代 平成2年 1990年 ・河原湯の天井落下、共同浴場安全管理委員会発足。 野沢温泉高度利用組合発足。
平成3年 1991年 ・野沢温泉源泉所有者会議発足。 村、福祉センターに引湯。
平成4年 1992年 ・河原湯改築、全共同浴場施錠、寺湯地区の村道(上寺湯上)に廃湯を使って消雪道路工事完成。
平成5年 1993年 ・野沢温泉アリーナ、オープン。向林の源泉を利用する。
平成6年 1994年 ・大湯(惣湯、犬養の御湯)改築工事(47年ぶり)。
平成8年 1996年 ・薬師三尊像の遷座式(※2)行われる、健命寺に安置されていたが 66年ぶりに大湯(惣湯、犬養の御湯)に戻る。 野沢グランドホテルが所有する温泉競技プールの全面改修により、プール分温泉 6口が野沢会に返還される。
平成9年 1997年 ・野沢温泉アリーナ国際会議場にて、第32回長野県温泉協会総会が開催される。
平成10年 1998年 ・十二神将(※3)を大湯以外の 12ヶ所の外湯(共同浴場)に安置される。 全外湯(共同浴場 13ヶ所)に「入浴注意書き」を設置する。 野沢温泉アリーナ国際会議場にて、全国温泉協会の総会が開催される。
平成18年 2006年 ・真湯共同浴場改築工事。
平成27年 2015年 ・熊の手洗い湯改築工事。
平成30年 2018年 ・新田の湯改築工事(西宮神社上から西宮神社下へ移動)。
       
       
備 考 ※1 ・おびん、おきち事件: 魚沼方面から来村するものは、津南から森宮へ出、さらに志久見・東大滝・野澤峠(燈籠木峠)を越えてくるのが普通であった。安永3年(1774年)6月 越後蒲原郡杉原領内猫山村の阿部利兵衛娘おびんと同村おきちの二名が野澤に湯治に来る途中、上ノ平付近で賊に襲われ、おびんが殺害された事件である。  現在でも上ノ平付近に「おびん平」と呼ばれる地域がある。
※2 ・薬師三尊像の遷座式: 大湯(惣湯)に遷座された薬師三尊は健命寺の経堂兼薬師堂に安置されていた。昭和 7年残雪の多い3月12日夜、余し火(御燈明)が元で、野沢温泉の薬師堂が全焼した。当日御燈明をあげ参拝された方が後日野沢組惣代を訪れて、深く陳謝し、薬師堂再建時には、建設費の一部を負担させてほしいとの申し出があった。 昭和 7年の頃は世界的経済不況の最中で、まさに暗黒の時局であったが、野沢組惣代では村内の有力者を集め野沢温泉薬師堂再建会を結成し、再建資金を調達せんと企画されたが、時局の情勢などを勘考した結果先送りするに至った。その後、1~2年経過したある日、失火された方が親戚一同で再度野沢組惣代を訪れ、新調した薬師三尊(本尊、日光、月光)を持参し、とりあえずお詫びの一部としてお受けいただきたいと申し出た。しかし当時としては、村民感情がまだ収まっていない時期でとてもお受けできる状況ではないと判断、惣代としては受け取れない事を伝え、とりあえず、健命寺二十二代住職大谷霊雄様に御相談して、お預かりいただきたくお願いしたところ快くお受けいただく事になった。
※3

・十二神将について : 薬師如来(様々な病苦を救い癒し且つ来世に迄福徳、利楽を与えられる仏さまで日光・月光の両菩薩をしたがえる。これを一般に薬師三尊と称す。)を妨げる多くの悪魔に対して、十二支の年と方角を守護する仏様が姿を変えられた十二の善神であり、悪魔を果敢に撃破するのであります。その十二神将の名称と干支と本地仏は次のとおりであります。

十二神将と          外 湯 十二神将 宮毘羅大将 伐折羅大将 迷企羅大将 安底羅大将 頞你羅大将 珊底羅大将
十二支
本  地  仏 弥勒菩薩 勢至菩薩 阿弥陀如来 観世音菩薩 如意輪観音 虚空蔵菩薩
設置の外湯 松葉の湯 秋葉の湯 中尾の湯 新田の湯 十王堂の湯 横落の湯
 
十二神将 因達羅大将 波夷羅大将 摩虎羅大将 真達羅大将 招杜羅大将 毘羯羅大将
十二支
本  地  仏 地蔵菩薩 文殊菩薩 大威徳明王 普賢菩薩 大日如来 釈迦如来
設置の外湯 熊の手洗い湯 上寺湯 麻釜の湯 河原湯 真 湯 滝の湯
   

 

                        野沢組・野沢会所蔵の 富井宇内氏の文献、富井盛雄氏の文献 を参考に掲載。